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■「中央調査報(No.635)」より

 ■ 政と官

村松岐夫(京都大学名誉教授)  

 筆者は、1970年代半ばから2003年の間に9回にわたって、戦後日本の主要な政策アクター(国会議員、官僚、有力団体幹部)の面接調査を実施した。
 本稿は、上記調査データの分析を通じて、日本における”政と官”の関係変化を政権交代の前にさかのぼって分析し、同時に、現在政治議題になっている、”政と官の分業関係”を展望しようとするものである。

Ⅰ 「政と官」という争点
 最近の政権交代によって政治家と官僚の関係は大きく変わった。変化は、政権党・政治家が省庁官僚制のイニシアティブによる政策提案をできるだけ退け、党マニュフェストから新政策を打ち出そうとしているところに見られる。政権交代があってからしばらくのあいだ、官僚の側を見ると人事異動は停止ということになって、彼等は、一時呆然自失のように見えたが、最近になってルーティンは復活しつつある。つまり、各府省とも昇任人事は再開しているが、どういう基準で昇進が行われるのかは示されていないために、不安定である。この昇進の思想の重要性については、後で述べるとして、公務員制度改革は、民主党政権の下でも国会・政党政治の重要な争点である。
 現在に続く公務員制度改革論は、最初、橋本行革の下で、審議会を設置して動いていた。しかしその答申は、もはや記憶されていない。次に90年代末から小泉内閣時代にかけて、公然とは言い難い仕組みの中で、改革の検討は行われていたが、これもあまり痕跡を残していない。この頃、人事院も、国家Ⅰ種試験の合格者数を従来の2.5倍とする改革を行った。また、企業経営も参考にして、人事評価の試行も始めた。しかし、やがて今のように天下り禁止問題が最重要のアジェンダ(政治議題)となったわけである。
 小泉、安倍、福田、麻生とつづいた自民党内閣の下で、行政改革担当大臣がおかれ、歴代大臣は、労働基本権の回復や、天下り禁止や、昇任人事問題に関して、有識者会議を設置し、あるいは行政改革本部の任務として、公務員制度改革をとりあげ検討を行った。公務員の昇進の一括管理とか、退職の一括管理とかの構想が提示されたりした。制度的には内閣人事局の設置の提案があったこともある。90年代末から2000年代の初頭にかけて官僚のスキャンダルも政治家に負けずにメディアにのって、公務員制度改革の気運は生まれた。しかし、この間、これらの事件に目を奪われて、公務員制度改革という以上最も重要なはずの次のような2つのテーマが抜け落ちていたと思う。
 第1に、日本は、このグローバリゼーションの時代の政府(パブリックセクター)に何を期待するのか。政策の主たる責任者である政治家との関係で、公務員の任務は何であるか。第2に、公務員に期待される専門能力をいかに育成し、彼らの中立性を確保するかである。これらを議論の正面にすえれば、政治任命の必要性やその規模の問題、公務員の昇進の基準は自然に決まってくる。別に、公務員の退職後の処遇問題は、特に考慮に値する問題である。天下り禁止が重要なのは、公務員が退職した後に、彼らの生活保障はどうなるのかの問題がかかっているからである。
 この点を含む上記のような重要なテーマに正面から取り組む体制が組まれなかったのはなぜか。その理由の一つについて、筆者は、政党・政治家と官僚の関係が、複雑に「こじれ」ているからであると思う。その「こじれ」とはいかなるものであるか。これほど「こじれる」のはなぜか?

 Ⅱ こじれ
 「こじれ」の原因を考えてみると、根は深く、多くの要因が関連している。その全てに触れることは出来ないが、筆者が、中央調査社に委託して行った政策アクター調査の結果のデータには、「ねじれ」を反映していると思われる情報が含まれている。以下、調査データによって政治家と官僚の認知や心情について分析し、その上で、世論メディアの論調の基礎にある学界の議論の混乱を取り上げたい。メディアに登場する議論や学界の議論が、事実・実態の解釈によって「ねじれ」を増幅している可能性もある。
 ①実態を反映するデータの傾向
 最初の調査は、1976-77年の議員、官僚調査であり、最後の調査は、2003年の団体調査である。これらを統計的に処理したデータから見えてくるのは、調査の行われた30年間の前半は、自民党が優勢政党としてその地位を確立し、政官の協調関係が円滑な時代であったが、30年の後半においては、自民と官僚は、それぞれにその役割を徐々に後退させ、両者の関係にもヒビが入ってくる。政権党・自民党は、90年代末、官僚制への不満を、突如官僚批判という形で表現し始めたのである。それ迄は、容認していた天下りを認めないとも言い出した。不良債権の処理や長期経済不況の責任も官僚に押しつけ、90年代末、政権党は官僚側を突き放したと言えよう。省庁再編が行われ、銀行局は金融監督庁(現在は金融庁)として、大蔵省から切り離された。他方、冷戦終了以降には、官僚の側でも政権担当者は自民党でなく、「第2保守党」である民主党でも良いのではないかと考え始めていた節がある。
 まず、第1回調査の頃に戻ってみたい。1970年代半ば、新自由クラブの離党はあったが、自民党の優勢は確定的であった。官僚の活動も安定政権の下で円滑であった。政権党は、全体として官僚に大きな委任をしていたと言って良い。官僚の活動を見て、世間の一部は、官僚制は政党を超える力であると見ていた。実際、図1において、官僚集団は、1970年代にはかなりの程度で自己の影響力が大きいとの認識を示している。同じ図1において、第2回調査(1986年)、第3回(2001年)をみると政党の優位をよりハッキリ認めるようになり、官僚の側に影響力があるとの認知は後退する。別の質問文で、官僚にその「将来影響力」を予想してもらうと、第1回においてはかなり自信を示していた(図2)。ところが、その自信は、1986年には大分低下し、2001年には、いっそう低下している。

図1

図2

 この急降下をどう説明するか。それは、スキャンダルなどで官僚の自信が揺らいだといこともあるが、政権党との関係が円滑でなくなったばかりでなく、政権党からの攻撃の的になってしまい、政権党との密接提携で成立していた政治的影響力が失われてしまったからであると思われる。政権党との「こじれ」が、結局は官僚の影響力を奪ったのではないか。
 ここで取り上げている「こじれ」とは、ここでは政権党と官僚制がそれぞれ相手に不信を抱く心のわだかまりの蓄積の結果、両者が円滑な協力関係を欠く状態をいう。特に政権交代以後は、民主党は、自民党政権下で各省庁がもっていた既存の政策に執着することを嫌い、継続的な事業について多面的に停めた。事実、全省庁官僚制は一時動きが止まった感じがある。政官の連携あるいは情報交換も滞った。情報流通が停滞するのは「こじれ」た関係の表れである。政府の権威と権力は、何処の国でも、政官の協力提携がある時に生まれる。これでは困るではないかと誰も思っていたが、発言する人は少なかった2。2010年の参議院選挙以降、ようやく人事における大停滞は、わずかに融解し、少しずつ人事異動が始まって、政府も動き出したと感じる。
 官僚の側でも政権への支持は減少していることを指摘しておきたい。図3をご覧いただきたい。第1回、第2回調査の時点では、官僚の自民党支持はかなり高い。ところが2001年調査の時点では、官僚の自民党支持が減少して他方「支持なし」が増加している。第三回では、「自民支持」と「支持なし」は、ほとんど同程度である。当時、政治家の「攻撃」を受けながら、官僚は不愉快であったのにちがいない。そうした文脈では、彼らも、政権の交代が、事態を変えることを期待したかも知れない。民主党には第2保守党というイメージがあった。少なくとも日米安保については、政権が交代しても動揺はないと見ていた可能性は高い。この政党支持のデータは世間の動向(世論調査結果)を反映しているが、密接提携の中にあった当事者のパートナーへの評価がネガティブに変わったのは事件というべきである。「こじれ」は自民党政権の時代に官僚の側から見てもすでにあったと思われるのである。政治の側から見れば、小泉政権の前でも小泉以後の3政権の下でも行革担当大臣は、官僚攻撃を続けていた。政官密接提携のスクラムは崩壊していたのである。

図3

 ところが、政権交代後、あらたな「こじれ」が、自民党政権時代の「こじれ」の上に生じた。民主党政権は、自民党時代のネットワークを断ち切る政治的な意図の下に、きわめて強い政治主導を打ち出し、従来型の官僚の側の政策準備を受け入れなかった(例として、ダム事業の廃止)。自民党・政治家は、幹部官僚の一部を政治任命職としていたが、民主党も政治任命職の設置に強い関心を持っている。われわれの調査で民主党の官僚観を推測させるデータがある。質問文の一つは、各政策アクターを比較して、それらがどの程度の影響力を持っているかをたずねた。図4を見て頂きたい。政治家のあいだでは、官僚制の影響力を強いという回答をするのは、与党ではなく、野党である。民主党には、野党時代に官僚の下にある政策情報から疎外されていたという認識が強くあったのではないかと思われる。その結果、官僚を自己の統轄下におきたいという願望は大きくなる。民主党は、自民党につながっていた既存官僚集団を信用できなかったものとみられる。民主党とは早くからから大きな「こじれ」があったのである。以上が過去15年の政官の歴史の中の「こじれ」である。

図4

 ②学界の混乱
 学界の政官関係論から来る「こじれ」もメディアにのって世間の認識に影響を与える。
 戦後長期にわたり、日本の政策決定過程は「議員」と「官僚」の協力関係によって行われていたことは、誰の目にも明らかであった。それだけに、この協力関係について、どちらがより大きな影響力を行使してきたか、政治学は大きな関心を持ってきた。論文の数も多い。官僚中心の政治支配と見る主張は、官僚優位論とか、最近では「官僚内閣論」という言葉で表現されている3。ただこの官僚優位論には、何となく多数の研究者に支持されていると思われるものの、明確な論者はいない。そのため、一貫した主張がどういう構造になっているかはハッキリしない。
 これに対するのは政党優位論である。政治主導という言葉も使われる。政党優位論は、「決定」したのが誰かを基準にして権力者を定める。この観点からは、戦後政治をリードしたのは、少なくとも55年の自民党の結党以後は自民党であり、官僚制はこれに協力したという理解になる。筆者もこの見解をとる。誰が見ても、1970年代の前半になると、国会における自民党の優位が確立し、政策にも政治家が熟達するようになって、官僚に対する政党の優位は確定的であった。1970年代にいたる前にも、諸保守政治家は「合同」して自民党を作り、外交方針もいわゆる吉田ドクトリンを共有して、戦後政治を支配していた。60年安保における国論の分裂に対しては、池田首相は、経済成長重視の展望を示して、政治的分裂後の日本政治におけるエネルギーの分散を防ぎ統一を図った。佐藤首相は、沖縄返還にイニシアティブを取りその方針を完遂した。田中首相は、地域格差の問題を世に知らしめて日本列島改造を主張した。この間、全体的に見て政治家と官僚は協調的であった。官僚制は政治の動向と政権の方針を忖度しながら、政策準備をしていた。自民党政権への好悪は別にして政権党はリーダーシップを発揮し、政と官は協力していた。
 政と官には複雑な関係があって、学界の雰囲気も議論も多様である。ただ、理論的主張には、体系性が欲しい。その観点をとった場合の論理的な帰結の予想をできる方が良い。それがあれば、完全な証拠のない主張であっても、人々はその主張を理解できる。官僚優位論で問題なのは、この主張が、そうした説明を十分にしていないことである。たとえば、「官僚内閣論」という議論があった。この言葉は、日本の政治は官僚が牛耳っていて政治家の役割はあまり無いというニュアンスを感じさせ、官僚支配の内閣では困るという議論を導くことになる。そこで、政治家は、メンツにかけて、自民党であれ民主党であれ、政治主導を主張する。政党・政治家が主導しなかったと言われると、政治家は政治主導をもっとやろうということになる。官僚優位論という主張は、55年以後のいわゆる戦後政治過程が登場して以来、実証されたことがないように思う。この状態で官僚優位論をジャーナリスティックに主張すれば官僚優位論は、官僚を窮地に立たせ、重要な仕事でも腰をひかせることになる。官僚優位論は、そういう風に官僚を追い込み、官僚のモラールを低下させ、日本のパブリックセクターを縮小するのが目的であったのか。
 官房管理の天下りは廃止するのはよいと思う。しかし、天下り禁止論を採用するならば、人事行政の全体がどうなるか(降格人事をやるのか、どういう風に可能かなど)、論者は質問されるであろう。キャリア官僚たちは、50歳前後に少しずつ辞職しセカンドジョブに移る慣行をどの程度崩すのか。少なくとも、退職後から年金の保障年齢までの生活はどうなるのかについての構想も必要である。筆者自身は、諸外国の例を検討して、機会あるごとに「年金制度を充実する」という、やや時流に逆行した主張をしてきた。また、筆者は、多数の高級官僚がセカンドジョブで大きな業績を上げている事例を知っている。これは天下りと呼ぶべきではない。元官僚でなければこなせないような重要でやりにくい仕事は多い。彼等を遊ばせることなく、十分に能力を発揮させ、その上で、適切な報酬を与える方法はあるはずである。仕事と報酬が釣り合っていることが重要である。ただ、たしかに従来の「天下り」たちの報酬は目に余るものがあった。
 官僚優位論には特に実証的研究がないにもかかわらず多数者が共鳴するのはなぜか。一般に直感されている2説がある。第1は感情論で、そのA説は、政治学者・行政学者には、同世代の法学部系卒業生のエースと思われる官僚たちへの嫉妬あるいは強い批判感情があるのではないかと言う説である。これに対しB説は、そうではなく、官僚優位論というのは、逆に、同時代エースへの賛辞だという。彼らの能力は高いので、彼等が政治家などに負けるわけがない。官僚が政策を作る以外に誰が国家の政策を策定できるのかという。これを聞いたときに、ここにもう一つの「こじれ」があるということが分かった。
 第2は、官僚制が政策準備に大きな役割を持っていることへの評価である。官僚に大きな役割を期待せざるを得ないのは20世紀以降の国家の現実である。何処の国でも官僚への依存は明らかである。具体的な事を言うならば、政策の策定や外交の折衝には官僚の下ごしらえが必要である。官僚の提示した政策がそのまま法律・予算や外交方針になることがある。そんなことはどこの国でもそうである。日本の政治学に比較研究が乏しく、日本では戦前からの「上から」の近代化が進められているという過去の記憶をひきずってしまうようである。しかし、実証的に見てみれば、戦後の政策決定は、政治家・政権党幹部によって行われている。日本の政治過程で、決定は国会多数派で行うことに紛れはない。
 したがって、政党優位論では、責任も常に政権党にある。野党の発言でも国会の多数党が採用すれば第一の責任は与党にある。1998年の金融二法が思い出される。自民党は民主党案を丸呑みした。それでも金融二法は、自民党政権の策定したものであると見るのが常識である。

Ⅲ 解決の方向
 この「こじれ」の中で政と官の分業をどう改革すべきか。官僚制における人事行政に目をつけるべきだと思う。これまでは、日本の官僚制では、幹部候補生を若く採用し、ジェネラリストとして育成してきた。同世代に競争をさせ、その中のトップ集団をしだいに絞りこみ最後に一人を選ぶという方法が従来の幹部官僚の人事である。ジェネラリストは全体として「政治的調整」にかかわって高いレベルで内閣・省庁の政治マターの処理に関しても政権党を助けた。しかし、ジェネラリスト官僚が政治の領域にまで立ち入った活動をしたのはやり過ぎであった。
 このことを認めると次の展望が開ける。幹部がかかわってきた政治的機能は、政治職公務員に委ねる。政治職公務員は、各省にもおかれ、各省の政策を準備する。この過程で、当然ながら、職業公務員の活動結果が利用される。職業官僚には、世界の政策との比較や資料・統計だけでなく政策の準備を必要に応じて行う。準備される政策の水準は、国際行政競争の中にある。その専門的水準は高いもでなければならない。各省の主要業務ごとに高度の専門職担当者(スペシャリスト)が必要なのである。政治的調整に長けた人はジェネラリストの道を歩むのも良いが、キャリアの途中で、ジェネラリストの道をとるか、専門家の道をとるか、各自の希望と自発性をとり入れる手続きを設けたらどうか。それぞれの専門職トップはそれぞれの専門行政の一番なのである。当然処遇もジェネラリストと比べて遜色無しとする。そういうような専門家が必要である。各省大臣のもとに働くのは少数の政治職スタッフと中立性と専門性で活動するキャリア専門家集団である。


1筆者は、議員、官僚、団体指導者など政策アクターに対して行った合計9回の面接調査結果の分析によって、最近、『政官スクラム型リーダーシップの崩壊』(東洋経済新報社)を出版した。そこでは、日本の政治支配の中核は、政官の密接な提携関係にあったが、90年代後半、つまり2009年の政権交代のずっと前に、それは崩壊したと論じた。
2古川貞二郎・小野元之・北畑隆生 「官僚を使わずして国成り立たず」文藝春秋2010年7月号は数少ない発言の1つである。
3「官僚内閣制」というのは飯尾潤が使った言葉であるが、彼が、真の官僚優位論者であるかどうかは必ずしも明確ではない。しかし、この言葉は、官僚が権力を持ちすぎているという意味で流行した。飯尾潤『日本の統治構造』(中公新書、2008)