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■「中央調査報(No.535)」より

 自殺のGDP損失は1兆円=国立人口問題研が推計

時事通信社社会部  武内 佳晴


  自殺による昨年1年間の日本の国内総生産(GDP)の損失額が、推計で約1兆円に上ることが、厚生労働省の自殺防止対策事業として、国立社会保障・人口問題研究所がまとめた「自殺による社会・経済へのマクロ的な影響調査」で明らかになった。自殺者が急増した1998年以前より損失額は4割以上増えており、自殺者数が今後横ばいで推移しても損失額は今年中には1兆円を突破し、2005年には1兆2千億円を超すと予測されている。

 厚労省や警察庁が発表している自殺に関する統計資料によると、自殺による死亡者数は1998年に約30%以上急増して3万人を突破した後、高止まりの状態が続いている。同年以降はほぼ横ばいで自殺者数は5年連続で3万人を超えている。特に不況による倒産や失業などの影響から、世帯主であり経済の担い手でもある中高年の男性勤労者の自殺率が増加傾向にある。
 調査は同研究所の金子能宏・社会保障応用分析研究部第一室長らの研究グループが実施した。勤労者が自殺した場合の社会的な逸失利益を明確にする研究はこれまで国内でほとんど例がなかった。
 金子室長らは特に近年、中高年男性の自殺が増えている点に着目し、自殺防止対策の有効性を明らかにする狙いから調査を行った。

◇自殺急増で損失4割増
 調査はまず、自殺により失われた個人レベルの逸失利益を算出した。自殺者が平均寿命まで生きた場合に得られた勤労所得や老齢年金所得、遺族年金などの総損失額を計算。これに労働者と自営業者別の自殺者を掛け合わせた上で合計し、社会全体の損失額を出した。近年は大学進学率が高い水準にあるため、24歳以下は対象者から除外。
 またパートタイム労働者は社会保険が適用されず、年金額の推計が困難なので対象から外した。
 計算の結果、社会全体の逸失利益は、95年から97年までの平均値で1兆7820億円だったのに対し、自殺が急増した98年から2000年までの平均では2兆5480億円に達した。
 社会全体の所得が失われれば、その所得から派生する消費が失われ、GDPの増加も失われることになる。同調査では、日本のマクロ経済の動向を方程式体系で表して推計する「マクロ計量経済モデル」を利用して、自殺によるGDP損失額を計算する方法を採った。
 調査ではまず、内閣府経済社会総合研究所が公表している「短期日本経済マクロ計量モデル」を用いて計算。その結果、GDPの損失額は、自殺者が急増する前の3年間の平均で9140億円だったのに対し、98年以降の3年間の平均では約1兆3110億円と、4割以上も増加した。
 98年の自殺者増加により、それ以前と比べて毎年約4千億円のGDPが失われたことになる。

◇自殺減少による失業者増も考慮
 研究グループはさらに、防止対策が効果を上げて自殺者が減った場合、その人数分の労働力供給が増加して失業率が高くなることを考慮。より正確なGDP損失額を推計するには、自殺者数の減少が失業率に与える影響や、その結果が民間消費支出に及ぼす影響まで含めて推計する必要があると判断。これらの点も計数に含めた独自のマクロ計量経済モデルを使って計算した。
 計算には、同研究所が2000年に開発した「プロトタイプ・マクロ・モデル」を活用。同モデルを基に、中高年の自殺者がほかの年代に比べて高いことを反映させるため、年齢階級別の労働力を生産要素とする生産関数を加えた新たな計量モデルを作成。これにより、年代別の労働力人口の変化が失業率へ及ぼす影響を、推計結果に含むことができるようになった。
 この新たなモデルを用いた計算では、自殺者が急増した98年から2025年までを中長期的に推計。計算に当たって将来の自殺者数が、現在の3万人レベルのまま横ばいで推移すると仮定した。
 以上の条件で実質GDPの推移を計算したところ、図1の●で結ばれた線(GDPR1)の結果が出た。これは、自殺者が現状のように中高年に高い割合で続いた結果を反映した労働力人口が、そのまま推移した場合の実質GDPを示している。■で結ばれた線(GDPN1)は、この場合に対応した名目GDPの推移を示している。
 これに対して、98年以後、自殺防止対策が功を奏して、仮に自殺者数がゼロで就業者として働き続けた場合の実質GDPの推移を示したものが、△で結ばれた線(GDPR2)。また、この場合の名目GDPの推移を示したものが、×で結ばれた線(GDPN2)となる。これらは、約3万人の人が労働力人口に加わり、さらに失業率が増加することも考慮に入れた数値となっている。
 この図1に示された、現状の自殺死亡者数を反映した労働力人口の推移に基づくGDPと、自殺者数がゼロになった場合との差が、自殺によるGDPの損失額となる。
 こうして算出された名目GDPの損失額は、98年から00年までの3年間の平均では年間8309億円、01年から05年の平均では1兆995億円という結果となった。昨年1年間でみると9928億円で、今年中には1兆円を突破するという推計が得られた。
 図2は、こうして得られた自殺によるGDP損失額を5年おきに示したもの。名目GDPの損失額は、02年の約1兆円に対し05年には年間約1兆2千億円にまで増加。実質で見ても、01年から05年までの5年間の平均損失額は9371億円だが、06年から10年までの平均では約1兆2千億円に増加する。
 このように時間の経過とともに実質でもGDP損失額が増大するのは、生産関数の算出時に技術進歩が進むことを盛り込んでいるため。また、1人の人間が自殺せず就業者となった場合、その人が寄与するGDPの増加額は、のちの期間ほどより大きくなる傾向も反映している。
図1
図2

◇総合的な対策必要
 こうして得られたGDP損失額の98年以降の累計を計算すると、名目額では00年で約2兆6000億円、05年で約7兆8400億円、10年には約14兆4000億円となり、25年には約42兆6800億円に達する。実質額で見ても、00年で約2兆4900億円、05年で約7兆4000億円、10年で約13兆4000億円、25年には37兆9300億円にまで増加する。
 こうした調査結果について、主任研究員として調査にあたった金子室長は「有効な自殺防止策は、経済効果の面でも意義が大きいことがはっきりした。医療や精神保健など従来の社会保障政策だけに限らず、経済や財政、雇用政策と連動した総合的な対策を取るべきだ」と指摘している。
 同調査は個人レベルの逸失利益を、単一の世代に限って計算している。しかし現実には、中高年者の自殺によって、その子供が高等教育を受けられなくなるなど、次世代の生涯所得にも影響を与える可能性がある。金子室長は「親が自殺しなかった場合の教育投資の減少も考慮すると、損失額はさらに増大する可能性がある」と指摘している。
 調査結果については、精神保健分野の専門家も高く評価している。自殺問題に詳しい大野裕慶応大教授(精神医学)は、「WHO(世界保健機関)が実施している研究でも、うつ病などと並んで、自殺が社会に与える経済的な負担が近年、特に増大しているとの結果が出ている。世界的にも注目されている分野だが、国内での研究事例はこれまでほとんどなかった」と調査の意義を指摘。その上で、「自殺を当事者周辺だけの問題と捉えず、社会全体の問題として対策に取り組む必要があることを示した貴重なデータと言える」と評価している。

◇諸外国の対策も研究
 同調査ではこうしたデータの計算とともに、諸外国の自殺に対する取り組みについても比較研究。
 スウェーデンやアメリカ、オーストラリアなどの自殺防止対策の動向を研究した。
 調査によると、世界でも最も先進的な自殺対策を実施しているとされるスウェーデンでは、「国立心の病と自殺研究・防止対策センター」を設置するなど、70年代から国立機関が中心となった本格的な対策が採られている。同センターはWHOの連携機関として承認されており、各種のプログラムを実施。95年には国家的な自殺対策プログラムを発表、10項目の自殺防止戦略を掲げて対策を行っている。
 アメリカは96年にWHOが出した世界規模での自殺増加についての勧告を受け、本格的な防止対策に取り組み始めた。スウェーデンとは対照的に、NPOなど民間団体や自殺学会、州単位での取り組みを中心に支援や研究活動を行っている。またオーストラリアも早くから自殺対策への取り組みを始めており、89年に西オーストラリア州が州政府レベルでの行動計画を策定したのをきっかけに90年代には国家レベルでの対策を強化。特に精神保健対策が最優先課題とされ、03年までの5カ年計画で精神保健を改善するなどの対策が実施されている。
 一方、海外の専門家の研究結果では、日本は「国家的取り組みが行われていない国」に分類されているという。同調査は今後の国内対策として、スウェーデンのような自殺防止センターの設立や、電話相談以外の相談窓口の充実、学校やメディアを通じた自殺防止教育の強化などが必要と指摘している。(了)