■ 東京大学社会科学研究所の「働き方とライフスタイルの変化に関する全国調査(JLPS)2010」の結果から
田辺 俊介(東京大学社会科学研究所・准教授) 東京大学社会科学研究所では、2010年で第4回目となったパネル調査「働き方とライフスタイルの変化に関する全国調査(JLPS)」を実施している。本稿は、主に2010年調査の結果に基づき基礎的な集計と分析をまとめたものである。まず調査の概要を述べたあと、分析1では、人々の抱く「希望」についてその4年間の変化やその要因について分析した。分析2では、若年男性の個人収入に着目し、所得水準の変化や所得変動(所得の増減)について検討した。最後の分析3においては、自己啓発や職場での教育訓練を取り上げ、その機会の格差や阻害要因に関する分析を行った1。 1.調査の概要 東京大学社会科学研究所では、2007年より「働き方とライフスタイルの変化に関する全国調査」(Japanese Life Course Panel Survey - JLPS)を実施し、同一の調査対象者に対して毎年追跡調査してきた。この調査は、急激な少子化・高齢化や世界的な経済変動がひとびとの生活に影響を与える中で、日本に生活するひとびとの働き方、結婚・出産といった家族形成、社会や政治に関する意識・態度がどのように変化しているのかを探索することを目的としている。同一個人を追跡することによって、個人の行動や意識の変化を跡付けることができる点が、他の調査にはない本調査の強みである。 第1回の調査を2007年1月~4月に行った。日本全国に居住する20~34歳(若年調査)、35~40歳(壮年調査)の男女を母集団として、選挙人名簿と住民基本台帳から性別・年齢を層化して対象者を抽出した。調査票を郵送で対象者に配布し、後日記入された調査票を調査員が訪問して回収した(郵送配布・訪問回収法)。回収数は、3367名(若年調査、回収率35%)、1433名(壮年調査、回収率40%)であった。 続く第2回調査は、2008年1月~3月にかけて実施した。第1回調査回答者全員を対象とし、第1回目と同様に郵送配布・訪問回収法を用いた。若年調査は2719名(第1回調査回答者の80%)、壮年調査は1246名(同87%)の対象者から追跡調査の回答を得た。 第3回調査は2009年1月~3月にかけて郵送配布・訪問回収法により実施し、若年調査は2443名(アタック数の79%)、壮年調査は1164名(同86%)の対象者から回答を得た2。また第4回調査は2010年1月~ 5月にかけて郵送配布・郵送回収法により実施し、若年調査2174名(アタック数の73%)、壮年調査1012名(同79%)の対象者から調査票の返送を受けた(データクリーニングが現在進行中のためこれらの数値は暫定版である)。 なお集計にあたっては、基本的に若年調査と壮年調査を合併して行っている。 (田辺俊介) 2.現在の生活実感と将来の希望や見通し(分析1) (1)しぼむ希望と悪化する将来見通し 個人の将来の希望の有無について、2007年には過半数を超える55%の人々が希望を持っていた。それが年々減少し、リーマン・ショック後の2009年の調査では45%に、さらに政権交代後の2010年でも43%まで減少している。あるいは将来の暮らしむきの見通しも、2007年には半数近い47%の人が「良くなる」と考えていたのが、2009年には38%まで急落し、2010年も37%と微減を続けている。リーマン・ショック以後、少なからぬ人々が希望を失い、将来展望を悪化させてしまったと考えられる。 一方、同じく図表1には、生活全般への満足度として「あなたは生活全般にどのくらい満足していますか」とたずねた設問に対して「満足している」・「どちらかといえば満足している」と答えた人の割合を載せている。その満足している人の割合は、2007年に62%であったが、リーマン・ショック以後の2009年には67%とむしろ上昇しており、2010年も65%とほぼ同水準を維持していた。 このように生活満足感のような現在の状況への認知はむしろ好転しているにも関わらず3、未来に対する希望や将来への見通しは悪化しているのである。 (2)イメージとしての「暗い未来」 その図表を一見して分かるように、世帯収入・個人収入の変化と希望をなくした人の比率には差がない。つまり収入の変化と希望の喪失の間には関連がなく、個人個人が希望を失った理由は単純な経済的な問題ではないのである。また雇用状態の変化(例えば典型雇用から非典型雇用)の影響も特になかった(図表省略)。 続いて、希望を失ってしまった人々に性別や学歴、あるいは雇用状態5などの点で特徴があるのかを検討したのが図表3である。 その図表から明らかなように、男女差・学歴差、また雇用状態による差はほとんどない。さらに、男性・大卒・典型雇用などの属性の組合せ別に見た場合でも、特定の属性が組み合わさった人々が大きく希望を失っているという傾向は見られなかった(図表省略)。 以上の検討から、2007年からの4年間、特に2008年から2009年にかけて起こった「希望の喪失」の原因は、個人的な要因だけとは考えにくい。確かにリーマン・ショックのような社会現象が、個人個人の生活状況自体を悪化させた例も少なくないだろう。しかし社会の単位で見ると、現在の生活実態や現状認識よりも、むしろ将来への希望や見通しのような未来への意識に強い影響を与えたと考えられる。つまり、ここ数年の様々な社会的な事件は、個々人の生活自体や現状の実感にはあまり影響を与えていないが、その一方で社会全体の将来の希望や将来見通しを悪化させ、イメージとして「暗い未来像」を抱く人を増やしてしまっているのだと考えられる。 (田辺俊介) 3.若年者の所得変動―相対的低収入層における所得低下リスクの増大―(分析2) 近年、所得格差の拡大が指摘されている。また、平均的な所得水準の低下も報告されている(たとえば「民間給与実態統計調査」)。しかし、こうした一般的な統計では同一人物の所得変化を観察することはできない。本報告では、同一個人の毎年の情報を追跡するパネル調査を用いて、若年層における所得変化の特徴を明らかにする。なお、結婚・出産等で就業状態が変化することの多い女性の収入については、単純に議論することができないので本報告では数値の掲載を省略している。 本調査の分析から、金融危機および不況により、所得の伸びが鈍化し、相対的に低い所得グループで所得が低下するリスクが高まっていることが明らかになった。 (1)所得水準と所得格差 図表4をみると、所得はゆるやかではあるものの上昇しており、これは年功的な処遇を反映している。ただし、2009年から2010年にかけては、所得はほとんど伸びていない。これは2008年に起こったリーマン・ショックの影響だと考えられる。なお、この間、ジニ係数の拡大はみられず格差が拡大した訳ではない。 (2)所得の増減 (3)誰の所得が低下したのか これによると、所得の高いグループで所得が低下する割合は10%に満たないのに対して、所得の低いグループでは30%前後も所得が低下することがわかる。この傾向はリーマン・ショックの影響の現れる2009年から2010年にかけて特に顕著になっており、所得の低いグループの所得低下率は年齢の若い20代では40%にも達する。これは所得低下のリスクが若年、低所得という労働市場の周辺部分で集中的に顕われているということであり、雇用状態の不安定性を反映しているものと考えられる。 (吉田崇) 4.自己啓発と教育訓練(分析3) 近年、自己啓発への関心は非常に高い。熱心に勉強に取り組む人たちがメディアで頻繁に取り上げられている。他方で、企業は厳しい経済状況のなか、社員の教育訓練を行う余裕が無くなっていると言われる。現代日本社会において、若年(24~39歳)の働く人たちが学ぶ機会はどうなっているのかをJLPS2010のデータを用いて明らかにしたい。 (1)学ぶ機会の格差 女性において顕著 図表7からわかるように、職場での教育訓練は、非典型雇用よりも典型雇用において受けている人の割合が多くなっている。性別に見ると、男性の場合典型雇用ではおよそ3割(7%+25%)であるのに対し、非典型雇用では2割程度(2%+20%)にとどまる。女性でも、典型雇用ではおよそ4割(8%+30%)であるのに対し、非典型雇用では1割台半ば(4%+12%)にとどまる。このように、職場での教育訓練は、雇用形態によって受ける機会に差がある。 他方、自己啓発については、男性では典型・非典型の差はなくどちらも3割強である。女性では典型の方が4割程度と多く、非典型は2割程度と少ない。典型と非典型の差は、女性において顕著に見ることが出来る。 (2)自己啓発の阻害要因は、典型雇用では時間不足、非典型雇用では費用 では、具体的にどのような点で妨げを感じているのだろうか。図表9に結果を示した。もっとも多い理由は、典型雇用では時間がないことであるが、非典型雇用では費用が高額ということであった。 時間がないと答える割合が典型雇用と非典型雇用で異なるという結果は、厚生労働省の『能力開発基本調査』の調査結果と合致する。だが、費用が高額であると答える割合がこれほど典型雇用と非典型雇用で差があるというのは、同調査では見られなかった結果である。異なる調査結果が出た理由は定かではないが、もしこれが調査対象となっている人の年齢層の違いに起因しているとすれば、非典型雇用において費用が高額だと感じるのは、若年層に特有の事情なのではないかと考えられる。 また、費用が高額であると回答した人の特徴を詳しく見ていくと、女性の非典型雇用で、かつ10年後には正社員として働いていたいと考える人たちの間で費用が高額であると感じる傾向が強いことがわかった(図表10)。女性の場合、同じ非典型雇用でありながら、移行希望がない場合は37%であるのに対して、正社員への移行希望がある場合は57%と割合が高くなる。正社員へ移行したいと考えているこうした人たちの自己啓発を金銭的な面で支援する政策が求められていると言ってよいだろう。 (大島真夫) 5.おわりに 本稿では、第4回調査の新たに採用した調査項目である「自己啓発・教育訓練」についての分析結果を紹介した。また同一個人を追跡調査するパネル調査の強みを生かし、毎年の質問項目である「希望」や「所得」について、2007年から2010年までの変化に関する分析を紹介し、特に2008年に起こったリーマンショックのような社会現象の影響を考察した。JLPSは2014年度まで継続予定である。今後の追跡調査によって、個人のライフイベント(転職・結婚・出産など)と行動・意識の変化の対応といった分析が進むとともに、調査期間中に起こる社会的事件や社会変化が人々の生活や意識に与える影響も考察可能となる。そのためにも、今後も回答者との信頼関係の維持に努めながら継続調査を行っていきたい。 注 |