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■「中央調査報(No.686)」より

 ■ 中央調査社の設立まで -「北原資料」を参照しつつ- 

中央調査社常任理事 村尾 望  



 中央調査社は1954年(昭和29年)に時事通信社調査室と総理府国立世論調査所が合体して設立され、本年10月1日をもって満60年となりました。これまでのご指導、ご協力に深く御礼申し上げるとともに、今後ともご支援、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。
 さて当社では、改めて社の歴史を整理、記録する機会を持ち、また、先頃、戦後すぐに政府の世論調査事業に関わり、中央調査社にも参加した元常任理事の北原一身氏が所蔵していた各種資料が、元事務局長の内田史郎氏によって編集され、公益財団法人新聞通信調査会のライブラリーに寄贈されました。これにより、内閣・総理庁審議室と国立世論調査所の活動に関するオリジナル史料に触れることができましたので、本稿では、この資料集の一端を紹介しながら、時事通信社の調査事業も含め、設立に至るまでの事情について改めて整理したいと思います。

1.「北原資料」の概要
 北原一身氏は、1923年(大正6年)生まれで、大学卒業後にインドネシアに出征、復員後、高校教師を経て47年3月、内閣審議室に嘱託として就職した。以後一貫して、調査の理論研究、実務指導、経営の第一線にあり、国立世論調査所の廃止後は、浅野忠允、今野信一とともに中央調査社に移って調査第一部長、集計部長などを歴任、71年から75年まで常任理事となった。市場調査分野では、日本マーケティングリサーチ協会の前身である「マーケティングリサーチ機関協議会」の創設に参加し、75年の発足時には理事長となっている。
 今回、内田史郎氏が整理したのは、審議室輿論調査班から中央調査社設立までの時期のもの132点で、各資料にはナンバーが付されている。
 そのうち国立世論調査所設立まで(46年2月から49年6月まで、資料No.1~47)を第一部、国立世論調査所時代(49年7月から54年7月まで、資料No.48~132)を第二部とし、概ね古いものから並列している。手書きやガリ版刷りのものが多く、一部はワープロに打ち直して読みやすくしたものも含んでいる。
 日本世論調査協会の会報誌「よろん」の本年10月号(第114号)で、内田史郎氏による詳しい紹介がされており、そこでは資料の種類別に以下のように分類している。

  •  A 史料的なもの 
  •    略史、回想記、機関誌など
  •  B 組織・機構・規程など
  •    組織の機構、規程、要綱
  •  C 国立世論調査所の活動状況など
  •  D 研究資料・翻訳など
  •  E 調査結果・資料

 このうち、資料点数の7割程度、分量的には大部分を占めるのはDの「研究資料・翻訳」とEの「調査結果・資料」である。
 「研究資料・翻訳」の多くは米国の学者によるサンプリングや調査法に関する論文、講演録の翻訳で、米国政府による調査実施の歴史と現況を解説したものや、地方自治体の調査関係者の研修会での講義記録などもある。
 「調査結果・資料」は、日本広報協会が1992年に刊行した『世論調査報告書』(全8巻)において、審議室と国立世論調査所が実施した世論調査のほぼ全てが収録されており、今回の資料もそれとほぼ重なっている。ただし、調査結果以外に、調査票や詳しい企画設計書、調査員への指示書、投書分析なども一部含まれている。
 これらの論文、研究資料、調査結果、調査概要等はいずれも興味深いものであるが、ここではA、B、Cに属する組織や活動に関する文書に着目する。

2.内閣・総理庁官房審議室世論調査班の活動
 民主主義を根付かせようという占領軍民間情報教育局(CIE)の世論社会調査課(POSR)の示唆により、45年10月、内閣情報局企画部に輿論調査課が誕生した。課長は同盟通信社の政治部記者出身で後に代議士に転じた塚原俊郎氏で職員は10名程度だった。塚原氏の恩師で社会学の権威であった戸田貞三教授や小山栄三教授などの指導を仰いだ。
 その後、12月に情報局廃止で内務省地方局輿論調査課に所属が変わるが、内務省も廃止されたため46年1月には内閣に戻され、内閣官房審議室輿論調査班として本格的に活動を開始、翌年5月には、総理庁官房審議室輿論調査班(後に輿論調査部)となった。
 審議室輿論調査班は、当初から本格的な世論調査への体制づくりを目指した。
 北原資料の中では、資料No.6「輿論調査」によって伺う事が出来る。この文書は日付がなく内部資料とみられるが審議室の今後の運営方針が記され、4つの章にわかれそれぞれ以下の小見出しが付けられている。

  •  ・輿論調査の目的、方針及び方法
  •  ・輿論調査の必要性
  •  ・海外に於ける輿論調査機関
  •  ・官庁輿論調査機関の必要性

 最初の「輿論調査の目的、方針及び方法」では、目的として「民意を基礎とする政治を行い常に民衆に対する影響を知る為」「科学的調査と合理的判断により的確に輿論を把握する」とし、その方法は、①刊行物、②投書、③集会、④現地調査、⑤各社会層の個人意見の把握、⑥官庁及び民間調査機関に対する調査委嘱、⑦民間調査機関の指導育成、を列挙している。
 ④の現地調査の説明として「直接輿論調査を行う」が「米国の各種調査方法を参考とし、問題選定その他については進駐軍当局と連絡していく」とあり、GHQの指導下にすすめていく点を明記している。
 次の「輿論調査の必要性」の項では、「民主政治実現の為には政治の参考として輿論を調査することは極めて必要」であり、「新しい政策を実施する場合、事前に輿論調査を行い、その動向を参考として政策を決定する」「政策を実施した後に於いて、その反響を調査して次の打つ手を研究する」「輿論を啓蒙する」ために世論調査を行うことが民主政治実現の為に必要であるとしている。
 「海外に於ける輿論調査機関」は主に米国の輿論調査事情を概観している。
 最後の「官庁輿論調査機関の必要性」の説明の中では、「民間の調査機関は目下十一の多数を算するもいずれも機構、方法等万般不備を極め」、経営的にも独立していないため中正な調査は不可能であり、民間団体の育成をはかっても数年間はかかるはずで実現できるかどうかも不明であるが、審議室では年末までに「中央地方機構その他万般完備し得る見込みなり」としている。
 こうしたことから、民間の指導育成を図りつつも、しっかりした調査機関ができるまでは政府自身で「強力にしてかつ中正を期し得る」調査機関を持ち、調査実施に意欲的に取り組む考えだったことがわかる。
 ところが、同年5月に、食糧メーデーのデモを禁止するマッカーサー声明についての投書調査を報道機関に打診するはがきを出したことや、戦争犯罪人の裁判の是非について有識者に調査しようとしたことに対して、GHQから科学的でない調査はすべきでないと待ったがかかり、まず科学的な世論調査技術の確立を先決とし、調査の実施は当分禁止、地方機構の整備についても停止を指示された。(注1)
 この背景には、CIEの局長が、政府の調査組織育成に理解の深かったダイク准将からニージェント少将へ交代していたこともあるが、占領政策に直接抵触するような形での民意把握が、占領政策への批判につながりかねないことへの警戒感によるものだろう。
 しかし、政府による調査を全面否定するものではなく、11月には、政治的なことがらを除いて調査実施が解禁になる。また、米国から調査の専門家を招き、総理官邸で「輿論調査協議会」(後の日本世論調査協会)を47年3月25日、26日に開催して、民間関係者も交えて調査技術の研究をすすめた結果、47年8月に初の本格的な世論調査として「経済実相報告書に関する輿論調査」が実施され、翌48年1月には「祝祭日に関する輿論調査」が続いた。
 しかし、48年になると、審議室調査班内部から停滞打破の声が起きる。
 北原資料の資料No.1の「略史」では、「昭和23年2月 輿論調査班の存廃をめぐって内外より疑義生ず」「班内に於いて改革の機運次第に具体化す」とある。
 関係者の回想によると、各省庁から要請を受けて調査の企画から実施までを行うとしていたが、なかなか要請が上がらず、また、調査班で企画を上げても、上層部から必要性への理解が得られないことも多かったようである。(注2)
 北原資料には、資料No.23の一連のメモの中にそうした状況をより具体的に物語る「企画委員会設置の申し入れ」と題する文書がある。
 日付は3月19日で、年は不明であるが、冒頭「三年にならんとする当班の沈滞を破り」とあるので48年と考えられる。そして、「当面する改組までの暫定措置」として「業務遂行の推進体の必要を痛感し」「企画委員会(仮称)を設け」「企画統括するとともに班長、事務官との連絡の衝に当たる」としている。この提案がその後どうなったのかまでは判明しないが、より能動的な組織に組み替えたいという要望があったことが伺える。ちなみにこの文書で、「当分の間企画委員は、浅野、今野、北原を以って企画委員にあてる」としているが、いずれも、後の中央調査社設立の際には総理府から移籍した人たちである。
 こうした内部の動きが進行、具体化していった結果、「一部の高級官僚の判断によって左右されないで、学識経験者による審議会などによって、調査すべき事項が決定され、自主的に調査のできるような独立の機関」を設立しようという動きとなり、占領軍当局の賛同も取り付け、48年秋には、国立世論調査所設置の具体案が固まっていたようだ。(注3)
 48年9月以降、国立世論調査所が設置される翌年6月までに審議室が実施した調査は48年9月の「交通安全週間ビラ」から49年4月の「所得税申告説明書の理解度」まで7本で、ほぼ月1本ペースとそれ以前より活発化している。ただし全国成人の調査はなく、都内、大都市、農家というように対象を限定した調査である。

3.国立世論調査所の設置
 49年6月、審議室輿論調査部が発展的に解消して国立世論調査所が設立され、政府による独立した世論調査機関が誕生した。
 北原資料のNo.48に「国立世論調査所設置法」があるが、第2条の職務及び権限で、①政府の施策に関し世論を科学的に調査する、②調査結果を政府内に報告し、一般に公表する、③地方公共団体及びその他の者への助言、協力、④世論調査方法の研究、資料の蒐集、⑤世論調査の普及発達を図る――とし、第5条で、事業方針、実施計画、結果の発表については「世論調査審議会」が定め、審議会の委員は7人の学識経験者で構成するとしている。審議会の権限は強く「政治権力が世論調査に介入することを排除するためのもの」といえる。(注4)
 所長には学者出身の小山栄三氏、審議会委員長には戸田貞三氏が就任し、両人とも内閣審議室調査班発足からの顧問として指導的な役割を果たしてきた。
 組織は企画室、実施計画室、庶務課、調査実施課、標本抽出課、製表集計課、編集広報課の2室5課、定員61名から構成された。通常は各分担業務を行うが、調査ごとに担当チーム(ディレクター以下数名で編成)に所属し、企画から報告書まで一貫して作業を行う態勢をとった。
 国立世論調査所が最初に実施した世論調査は「社会保障制度に関する世論調査・第1部」(49年6月実施)で、全国都市部の20~59歳男女2,025名を対象に面接し、標本抽出は7ブロック・4都市規模で層化、各層で町(区)をランダムに抽出した上、その中で配給台帳から個人を系統抽出している。
 設立から1年後の50年6月、調査の啓蒙、普及宣伝のため、タブロイド版の広報紙「国立世論調査所月報」を創刊した。
 北原資料No.53は、「月報」の創刊号から53年5月の29号まで(27号は欠落)である。また、資料No.52は月報発行の目的などを記した手書きのメモであるが、読者対象は、「地方公共団体の広報課員」「世論調査を行っている人」「地方連絡員、現地調査員」としている。
 「地方連絡員」については、資料No.57に50年6月の日付で「地方連絡員(仮称)設置要綱(案)」と「連絡員一覧」がある。主な職務としては、調査員の選定、実施の際の関係市町村への事前連絡、対象者抽出、調査員の召集、回収点検などで、非常勤だが内閣総理大臣が委嘱するとしている。「一覧」の所属欄をみると、都道府県の広報課の役人や大学院生、助手が多かったようだ。「月報」の25年11月号には、年度内に京阪神と名古屋地区に地方連絡員を置くことし、打合わせ講習会を11月16、17日に開催するという記事がある。調査の実施には中央から出張して現地で実施の手配をしていたようであるが、調査本数や全国調査の増加に対して、各地方でそうした業務を担う人材として連絡員を配置しようとしたとみられる。
 なお、「月報」には、「調査員通信」という各地で調査員を経験した人の感想を載せる欄があり、その職業をみると、全部で79人中「学生」28人、「公吏」27人、「農業」」7人などとなっており、調査員としても自治体の役人が多く参加していたようである。
 北原資料所収の「月報」は53年5月の29号までであり、その後の発行は停止されたとみられる。
 国立世論調査所は、設立から廃止される54年7月までの5年2ヶ月間に65件の調査を実施しているので、ほぼ毎月1本のペースで調査をしている。

4.時事通信社調査室の活動
 民間の調査機関は、戦後すぐに相当数の設立をみたが、多くは小規模で確たる方法論もなく組織的に調査を実施する能力に乏しかった。戦後いち早く、世論調査を始めたのは報道機関各社で、民意を把握し報道するため競って調査部門を設置した。
 時事通信社は、戦時中の国策通信社であった同盟通信社が1945年10月に自主的に解散し、株式会社時事通信社と社団法人共同通信社に分かれたことで発足した。同盟時代から政府との結びつきが強く、情報局輿論調査課長になった塚原俊郎氏や、その部下であった吉原一真氏は同盟通信社から移籍している。
 創立まもない時事通信社が調査部門を設置したのは、予算編成のため各省の執務人員、繁忙状況、官吏の収入などの把握を必要とした大蔵省が調査機関設立を持ちかけてきたためである。
 これに対し、時事通信社は沼佐隆次監査役を中心に、学者の小山栄三(内閣審議室顧問)、高橋正雄(GHQ経済局統計委員会)の両氏と相談して「日本政治経済調査所(仮称)設立要綱案」を作成、独立機関設立を役員会に提案した(注5)。しかし反対論もあり、46年6月、沼佐局長の下に社内に調査局を設置することにし、業務内容を次のように定めた。なお、49年2月に世論調査室、51年1月に調査室と改称した。
  •  ①政治・財政・経済の実態調査の受託・実施
  •  ②世論調査の受託・実施
  •  ③調査資料の整理と保管
 大蔵省からは、調査局設置以前に下記2件の実態調査委託があった。対象者選定は「比例割当法」を採用し、面接聴取はすべて時事通信社社員が行っている。
  •  ・「各省2級事務官及び技官の官庁より受ける実際月収」
  •  ・「各省の実際執務人員および事務繁忙の状況」
 その後も、大蔵省から翌47年3月までに17件の実態調査を受託したとされる。
 46年8月には終戦1周年の企画として、「日本民主化一ヶ年の動向輿論調査」を実施した。これは初めての自主企画の全国世論調査で、2,500標本を都道府県別に比例配分し、対象者は10区分の職業分類で割り当てた。面接聴取法で、回収数は2,453(98.1%)であった。この調査は、49年まで毎年実施されている。
 なお、この調査について、性別や郡部の構成比に配慮がされていない点でGHQから「信頼性に重大な疑問がある」と評価され、その後POSRのパッシン博士から調査方法について直接指導を受けることになった。(注6)
 46年8月には、東京都から35区を23区へ統合する件で、「区の整理統合に関する世論調査」を受託、大蔵省以外から初の委託調査であった。
 47年8月には、GHQの推薦により政府割当委員会から全国約40,000世帯対象の「新聞に関する世論調査」を受託した。既存の全国紙と、乱立した新興の新聞への用紙割当て根拠を求める調査で、“世論調査” としているが、全国・全新聞の購買実態を計測する市場調査であった。この時、パッシン博士は推薦理由として、日本の世論調査機関の中で最も優秀な三機関のうちの一つであることを上げている。(注7)
 48年10月の「ズルファミン剤」調査は、武田薬品からの受託で、全国20歳以上に第1次調査(使用経験者のスクリーニング)5,996人、第2次調査2,244人に実施した。民間企業から受託した初のサンプリングによる市場調査だった。
 48年5月には、「新聞世論調査連盟」を結成している。ブロック紙・県紙17社と共同して全国規模の世論調査を企画し、実施は各社が行い、サンプリング、集計、分析は幹事社の時事通信社が担当した。同年7月に、第1回調査「インフレはどうなるか」を発表して以後、66年3月に解散するまで168回の世論調査を実施している。
 地方自治体からは、50年2月の北海道14市の市政調査を皮切りに、委託が相次ぐようになり、52年9月には全国84の地方自治体を集めて「地方自治世論調査会」を結成して調査委託の受け皿組織とした。
 50年9月には「市場調査研究会」を発足させた。これは、深井武夫調査室主査がパッシン博士の推薦により、49年6月から1年間、ミシガン大学やコロンビア大学に留学し、米国の市場調査事情を詳しく学んで得た知識を基にしている。東京・大阪の大手企業23社が参加し、定期的な研究会を開催、リポートとして「市場調査研究」を発行、消費者パネル調査、宣伝媒体調査(MCM調査)、小売店調査などを企画・実施して、市場調査の普及・研究で先駆的な役割を担うようになった。

 このように、時事通信社調査局は、中央調査社設立までの8年6ヶ月間に、多くの分野にわたり各種の調査を手がけた。合計すると359件に達し、月平均で3.5件になる。
 これらの調査名一覧表が保存されており、それにより分類したところでは、官庁の実態調査が41件、世論調査は176件、市場調査は142件である。世論調査のうちには、県や市からの委託とされるものが32件、新聞世論調査連盟によるものが38件含まれる。また、50年には市場調査が半分以上を占めるようになった。なお、これとは別に大阪支社調査部が単独で調査を実施する場合もあった。(注8)
 現在の社内には、この時期の原資料は、この一覧表とごく一部の調査結果報告書が残されているにすぎないが、94年4月に、大空社が、国会図書館憲政資料室所蔵のGHQ/SCAPマイクロフィッシュから72件の世論調査結果を復刻、「時事通信占領期世論調査」(全10巻)と題して刊行しており、川島高峰氏による解説が付されている。また、GHQのPOSR部長だったベネット博士が米国に送った当時の資料が、91年に日本世論調査協会に寄贈されたが、その中に時事通信が実施した調査の報告書も含まれており、岡本正明氏により大空社の復刻版と比較対照した解説が「中央調査報」のNo.444、445(94年10、11月号)に発表されている。
 間接資料としては、時事通信社や中央調査社の社史のほか、47年に時事へ入社し、主に大阪支社で経済調査を担当していた室井鐡衛氏の回想録「マーケティング事始め」が、2006年に関係者に配布されており、時事通信調査室の雰囲気を伝えている。(注9)

5.国立世論の廃止と中央調査社の設立
 先に、北原資料No.6「輿論調査」でみたように、政府による調査機関の設置は民間調査機関の育成が進むまでの暫定措置とされていた。
 また、民間においてとくに報道機関には、政府自身が行政評価を含む世論調査を実施することに批判的な意見が強かった。
 例えば、国立世論調査所の設置案について、48年11月2日の朝日新聞は社説で「民間に有力な専門機関があればその活動に待つのが本筋で政府機関を拡大すべきではない」が、そういう機関がないのでやむを得ないとし、条件として、①政治的色彩のあるものはやらないこと、②機構が官僚化しないこと、③内閣から独立しなければならないことをあげていた。(注10)
 さらに、51年に講和が成立し占領軍の施策や方針から自由になると、政府内では占領政策に沿って作られた行政機構の見直しをしようとする考えも出てきた。
 53年に入り、当時の吉田内閣は行政整理方針により、機構の簡素化、定員削減をすすめていたが、そうした動きの中で、占領軍のバックアップで作られ、政治からの独立性が強いことへの反動もあって国立世論調査所も整理対象になり、53年の秋頃には、翌年6月末をもって廃止することが決定したようである。(注11)
 これに対して、国立世論調査所の関係者の間では、廃止後に政府の世論調査を実施していく方法について、民間に信頼に足る調査機関を確保しようという動きが生じた。そこで報道のための世論調査以外に、政府・自治体の世論調査や民間企業の市場調査の受託に踏み出し、報道機関の中にありながら事実上、全国的な調査機関として機能していた時事通信社に話が持ちかけられたとみてよいだろう。これに対して、時事側から、この際、新しい調査機関を設立してはどうかと提案したらしい。受託実績を積み重ね、収支状況も順調で将来性もあるため、関連企業体の形で独立させたほうがよいとの判断とみられる。(注12)

 かくして7月15日に設立準備会が開かれ、委員は以下のように、ほぼ国立世論の関係者で占められていた。
 戸田貞三、藤本幸太郎、尾高朝雄、潮田江次、松方三郎(以上、前世論調査審議会委員)、田上辰雄(総理府審議室長)、小山栄三(元国立世論調査所長)、久武猛彦(前国立世論調査所長)、上村藤吉、沼佐隆次(以上時事通信社)。
 なお、北原資料には、廃止に際して審議室の方針を示す文書として資料No.73がある。54年7月31日付の2つの内閣官房審議室文書のうちのひとつで、「世論調査実施方針(案)」と題している。要約は以下で、設立後も密接な関与を維持していこうという姿勢がうかがえる。
  •  ・審議室では企画を立てる。
  •  ・現存の民間機関には、適当と思われるものがなく、実施は社団法人中央調査社(仮称)に委託する。設立にはできる限り援助する。
  •  ・審議室の世論調査関係職員38名の内年度内に退職すべき15名は中央調査社で引き受ける。
  •  ・審議室と中央調査社とで毎月1回定期連絡会議を開く。
 9月21日、設立発起人会と設立総会が開かれるが、その前の8月から9月にかけて、毎日、読売、東京の各紙や北京放送などは、中央調査社が、当時いわれていた宣伝・調査・広報を一体化する緒方竹虎副総理の「新情報機関」構想の焼き直しであり、言論統制のための機関だとして厳しく批判した。これらの批判に時事通信社は次のように反論し、独立性を強調している。
  •  ①政府からの補助金、助成金はない。
  •  ②政府自ら調査を行うより、民間調査機関に委託する方が公正な調査ができる。
  •  ③言論統制をするなら世論調査の必要はない。
  •  ④国立世論調査所の機能を吸収したのは、調査技術者が少なく、充実した調査機関形成にはその機能の活用が必要なためである。
 発起人会は、設立準備会委員に加え経済界、学識経験者、マスコミなどの代表者総勢30名で、当初は、緒方副総理や、官房長官、自治庁長官などの政府高官の参加も予定したが、上記の批判を意識してか見送られた。
 役員は、会長戸田貞三、常任理事沼佐隆次、理事小山栄三、郡祐一、杉道助、長谷川才次、藤本幸太郎、古野伊之助、堀越禎三、松方三郎、吉田秀雄、与良ヱ、監事上村藤吉、高野善一郎の14名、事務局長には沼佐隆次を選出した。
 11月1日総理府の認可を得、民法上の公益法人として活動を開始した。翌55年1月には旧国立世論から浅野忠允、北原一身、今野信一が移籍し、時事側の深井武夫、藤崎辰也、室井鐡衛、芳賀勇、下平孝吉らと幹部社員を構成した。
 こうして発足した中央調査社は、時事通信社の全国支局網を使った実施機構と豊富な調査実績を、国立世論調査所から洗練された調査技術と理論を受け継いだ。
 発足直後の11月には、月刊の機関紙「中央調査報」をタブロイド版形式で発行するが、国立世論調査所が1年前に停止した「月報」の復刊とも思えるほど似た体裁をとっており、調査の普及、啓発に役立てた。また、洗練された技術には、人員の移籍のほかに設備も含んでおり、時事調査室での集計は基本的に手作業で行っていたが、中央調査社は国立世論調査所で使用していたIBMの分類機2台を引き継いでいる。
 設立後の受託第一号は、郵政省の「年賀はがきに関する世論調査」で、最初の年度は半年で47件の調査を実施した。翌55年度は、時事調査室の市場調査研究会で実施していたMCM調査を拡大したMMR調査、56年度には消費財の保有購入を幅広く把握するBBR調査といったサンプル数が数万に及ぶ自主企画調査をスタートさせた。いずれも精度と正確さを追求した設計とし、多くのクライアントを得たことで営業基盤を強化した。同時に調査技術の研究会、講演会などの普及・研究活動を推進し、地方の実施担当者、調査員への研修教育にも力を注いでいくことによって、総合的な調査機関として歩みをすすめていくことになる。



注1)食糧メーデーの件は川島高峰氏がGHQ文書に基づき記している(『時事通信占領期世論調査』大空社、1994年、第1巻解説、川島高峰、p6)。また、北原資料のNo.1「略史」にも記載がある。戦犯裁判の件は高月東一氏の回想である。(「戦後世論調査秘史」、『望星』1979年11月号、p132)。
注2)高月東一「戦後世論調査秘史」、『望星』1979年12月号、p117。
注3)同上p118。なお、日本世論調査協会の記録では、48年10月16日の理事会で「国立世論調査所についてほぼその全貌が明らかに」されたとある(『日本世論調査協会報』第46号、1980年、p105)。
注4)『日本世論調査史資料』日本世論調査協会、1986年、p10、佐藤彰氏の回想。
注5)『建業十有五年』時事通信社、p420。
注6)『時事通信占領期世論調査』大空社、1994年、第1巻解説、川島高峰、p5。
注7)同上p5。他のふたつは、朝日新聞社と毎日新聞社だった。
注8)分類は調査名だけによるため、世論か市場かはっきりしない面があり厳密とはいえない。また、世論調査は、自主企画か官庁の委託かも不明である。大阪支社の調査は『時事通信占領期世論調査』の第10巻に5本紹介されている。
注9)自然塾編著『室井鐡衛マーケティングの本質』(クリエー出版、2014年)に収載。
注10)『日本世論調査協会報』第46号、1980年、p120。
注11)高月東一「戦後世論調査秘史」、『望星』1979年12月号、p118。
   『世論調査報告書』日本広報協会、1992年、第1巻解説、佐藤彰、p6。
注12)『建業十有五年』時事通信社、p429-431。54年1月には設立原案が作成されていたとある。